目次
解題
『コンスタンティノープル使節記』(本文と訳註)
アレンガ(序文)
1 オットー父子に便りの遅れを詫びる
2 コンスタンティノープル到着時の模様(6月4日)
3 皇帝ニケフォロス2世との初めての面談の模様(6月7日)
4 承前:ニケフォロスの発言内容
5 承前:都市ローマを解放したオットー1世を称賛し反論。ビザンツ皇帝たちの無能さを非難
6 承前:ニケフォロスの反論
7 承前:イタリア王国の10世紀事情とそれに基づく帰属先についての議論
8 承前:ニケフォロスが議論を打ち切る
9 承前:ビザンツ皇帝と儀式に参列する
10 承前:儀式の模様を伝え,ビザンツ人を嘲笑する
11 ビザンツ宮廷での会食の模様および食卓での論争(6月7日)
12 承前:論争内容の報告。「ローマ人」とは誰か,についての議論
13 宿泊先の館で病気に罹る(6月9日)
14 承前:病床よりビザンツ皇弟レオンに書簡で懇願する
15 皇弟レオンほか宮廷人と面談。オットー2世へのビザンツ皇娘降嫁の話題(6月13日)
16 承前:ブルガリア王ペトロスとビザンツ皇娘との婚姻の話し
17 都市ローマの堕落とコンスタンティヌス大帝の故事
18 承前:侍従長バシレイオスの示唆
19 聖使徒記念日の会談,ブルガリア人使節と同席し憤慨(6月29日)
20 ブルガリア人使節より下座に置かれた食卓の模様
21 ビザンツ聖職者らとの食卓,総主教ポリエウクトスと論争(7月6日)
22 承前:ビザンツ帝国内の異端について,サクソン族の清新さ
23 宿泊先の館に戻る途上での風景
24 宿泊先の館でその後3週間留め置かれたことに憤怒
25 コンスタンティノープル市外の離宮でニケフォロスと会見,オットー1世の皇帝称号に関して論争(7月19日)
26 承前:オットー1世がリウトプランドに持たせた指令書について
27 承前:カープア侯,ベネヴェント侯の問題
28 承前:会食。ビザンツ皇帝への歓呼礼を見聞してこれを嘲笑する
29 承前:ニケフォロスによる西方への艦隊派遣
30 承前:バーリ攻防戦のこと。イヴリア侯アーデルベルトゥスとビザンツ軍の同盟を非難
31 ニケフォロスの艦隊派遣(7月19日),皇帝ニケフォロスと宮殿で会食(7月20日:予言者エリヤの昇天祭の日)
32 承前:ニケフォロスに和平の仲介をすると進言
33 承前:食卓での会話
34 皇帝ニケフォロス,東方遠征(アシュリア人=サラセン人遠征)のためコンスタンティノープルを離れる(7月22日)
35 皇弟レオンに接見(7月23日)
36 ウンブリア宮殿に召し出されてニケフォロスと会談,イタリア問題について議論(7月25日)
37 皇帝らと会食,コンスタンティノープルの「公園」,そして西方の習俗について
38 皇帝とともに公園に赴く。オナゲルなる動物を見る
39 ビザンツ皇帝の東方遠征に関する理由①『ダニエルの幻視』
40 『ダニエルの幻視』をめぐるシチリア司教ヒッポリュトゥスとの討論
41 『ダニエルの幻視』についてのリウトプランドの解釈
42 『ダニエルの幻視』をめぐる占星術師らの見解
43 『ダニエルの幻視』をめぐるヒッポリュトゥスの見解と現実の戦況について
44 ビザンツ皇帝の東方遠征に関する理由②帝国全土での飢饉
45 オットー1世のバーリ攻囲中の出来事
46 ウンヴリア宮殿でニケフォロスから帰還許可を得る(7月27日)
47 マリア被昇天の祝日(8月15日)に教皇ヨハネスの使節到来,オットーとの和解を勧告する書簡
48 承前:教皇ヨハネスの使節が貧相であること,自身が豪奢であること
49 教皇使節の手紙がメソポタミアに滞在中のニケフォロスに送られた
50 宮殿に召喚され,パトリキオス位の宦官クリストフォロスらと会談。ローマ教皇がニケフォロスを「ギリシア人の皇帝」と呼んだ件を論難される(9月17日)
51 承前:「ローマ」について議論
52 ニケフォロスの皇帝就任の不正について,皇帝位がローマ教皇の配慮のもとにあるとの主張
53 和解についての議論,禁制品のこと
54 禁制品(紫色の生地)を没収される
55 没収された紫色の生地について
56 手交された黄金印璽付きの皇帝文書を嘲笑する
57 ニケフォロスへの遺恨を机に刻む
58 イタリアへの帰還の旅路,ナウパクトゥスに到着
59 ナウパクトゥス出発,オフィダリス川到着,パトラス遠望(11月23日)
60 聖アンドレアの日(11月30日)の嵐
61 嵐が収まりレフカスに向けて出立(12月2日)
62 南イタリアにおけるギリシア教会問題について
63 レフカス島到着(12月6日)
64 レフカス島を出立(12月14日),コルフ島到着,地震に遭遇(12月18日),同地で日蝕に遭遇(12月22日)
65 コルフで出会った長官ミカエルについて
付論I 『使節記』の目的と齟齬――中世キリスト教世界における「ローマ皇帝」問題
1 リウトプランドの苛立ち――何が問題だったのか
2 使節派遣への視角――リウトプランドの著述と足跡
3 使節派遣の位相
4 論争の核心――皇帝称号問題かイタリア問題か
5 使節派遣の目的と意図――婚姻同盟の模索
6 ビザンツ帝国の事情――ニケフォロス2世フォーカスの968年
おわりに
付論II 『使節記』における「ローマ」言説――中世キリスト教世界と「ローマ」理念
1 はじめに――課題の射程
2 『使節記』の中の「ローマ」――4類型の含意
3 「ローマ」観念の広がり
4 『使節記』の射程
あとがき
参考文献
系図1 9-10世紀イタリアをめぐる関係系図
系図2 10世紀ローマ司教座をめぐる関係系図
地図1 ヨーロッパ
地図2 エーゲ海
地図3 コンスタンティノープル市内図
索引
内容説明
オットー1世(フランク国王,皇帝)の名代として968年にコンスタンティノープルに派遣された外交使節クレモナ司教リウトプランドによる貴重な記録である。
リウトプランドは主著『報復の書』で著名だが,当時帝国官房書記としてオットーの重要な側近であった。彼はランゴバルド系の家柄に生まれ,イタリア王フゴの宮廷に出仕したあとイヴリア侯ベレンガリウス2世に仕えたが,仲違いしオットーのもとに逃亡した。彼の生涯は北イタリアの複雑な政治情勢を反映して紆余曲折に満ちたものだった。
使節の目的は,オットー1世の「皇帝」称号問題,南イタリア地域の諸侯の帰属問題,ビザンツのイタリアにおける拠点バーリをめぐる攻防の打開について,そしてオットー2世とビザンツ皇女との婚姻など多岐にわたっていた。
ビザンツとの厳しい交渉の中で4か月にわたりビザンツ側の冷遇に直面したリウトプランドは,憤りと皮肉に満ちた言葉でビザンツ人の思考と行動を事細かに嘲笑,罵倒し,ときにビザンツ皇帝ニケフォロス2世フォーカスを臨場感溢れる筆致で嘲罵する。
ヨーロッパ世界最大の都市で出会った宮廷人たちやそこで見聞した儀式などについての生き生きとした記述は,10世紀のビザンツ世界とヨーロッパの国際関係を知るうえでも第一級の史料である。〔知泉学術叢書〕第10巻